
こんなイキなクルマがあるであろうか! このクルマの持つオーラたるや現代のクルマには真似しても仕切れない圧倒的なモノがある。乗れば40年前とは思えないスムーズな乗り心地。なにせこの時代にパワーステアリングにオートマチックトランスミッション(いわゆるオートマ)なんて夢のまた夢! 当時だったら今のフェラーリの最高級なクラスを買うに等しい価値だったんです。ちなみに40年前の日本車と較べたら技術の違いは歴然! 今でも充分、いや十二分にアシに乗れる逸品です。このクルマ、前のオーナーが1200万円もかけてレストアしたモノ。うっふっふ!!
どなたか欲しい方がいたら問い合わせください。大切にしてくれる方ならば破格で譲ります。

《メルセデスベンツSL(型式番号W113)》
メルセデスベンツのSLは2シーターオープンの最高峰。SLはドイツ語でSPORT LEICHT の頭文字に由来。初代は1952年にルマン耐久レースを制覇した300SL(W194)をベースにライトウエイトののクーペ、カブリオレへと発展。二代目(W113) から高級車としての性格を強め、ラグジュアリー性や快適性を重視するコンセプトに!
1963年のジューネーブモーターショーで230SLがデビュー。自社製のオートマチックやパワーステアリングも用意(現在では当たり前だが、これらは超高級車の証であった!)こんな高級車なのにレーシングカードライバー級の腕前を持つ技術担当者のドルフウーレンハウトの運転する230SLはフェラーリ250GTが47、3秒で周回したサーキットで47、5秒で走るという実力を持ち合わせる。スタイリングはダイムラーベンツのデザイナーであったフランス人のポールブラックによる。パゴダルーフと呼ばれる屋根の中央が左右より低く逆反り形状のデザインが維新である。
1967年、機械式燃料噴射装置付き2,5L、 直6エンジンを積み、後輪もディスクブレ―キ化した250SLへ移行。1968年、燃料噴射装置付き2,8L エンジンを積んだ280SLへ移行。 高まる環境への配慮や安全性能の向上を目指して、1971年に後継モデルである3代目 R107へと移行する。
生産台数は230SLが19,831台、250SLが5,196台、280SLが23,885台である。
伊豆の田舎町、下田で外車に乗っていると、何故か心地が悪い。なんだか地元民に相容れない気がするのはボクだけであろうか。下田には一台、地元用にクルマが置いてある。駅の送迎に、買い物に、温泉に入りに、八百屋に買出し、観光に、別のビーチに海水浴に、食事に、酒飲みに、ゴミを運搬したり・・・とにかく都会のクルマに較べて活躍の幅が相当に広いのだ。こんな働き者のクルマを見たことが無い。このダイハツ・アトレイはちなみに10万円ポッキリであった。

波田が”かつて購入した品物10万円の部”ではクインクックウエアと同等に、本当に価値ある買い物であった。大事にはしているが、車内は砂だらけ、ボディーには穴ボコ、カセットもFMラジオも無く(従ってiPoDも使えない。)ラジカセを設置。一応、花びんが設置されていて綺麗なお花が飾ってある。田舎町・下田でもこの車以上に汚い、老朽化した車に出くわした事がない。 ちなみに波田は普段の買い物にアメックスのプラチナカードを使っているが(年会費10万円・・・)このクルマでスタンドに行ってカード払いでと言うと、必ずガソリンスタンド店員は①プラチナカード ②オレの顔 ③クルマ の順番で凝視されるのは気のせいではないと思う。しかしこのクルマで皆でドライブに出ると、とっても一体感が出るのは、この車内が狭いからであろうか。とにかく本当に”イイヤツ”ですよ! 平成二年生まれの16歳、メーターでは15万キロを走破!(遠乗り無しに15万キロってスゴイ!) まだまだ波田に仕える予定です。

小粋なスポーツカーの代名詞はメルセデス・ベンツSLシリーズだろう。数少ないオートマチックが許せるスポーツカーである。最初は70年代の280SLを狙って数年探したが、気に入る車は見当たらなかった。(30台位みたなぁ。)しかし日常のアシと考えて、ひとつ新型(?)を友人から乗せてもらったら、その走りっぷりは二十年以上前の車とは考えられない俊足だった。そして探すこと数ヶ月、なんと探せばあるもので実走行距離たったの4045キロというクルマを発見。京都の大金持ちのジーさんが観賞用に購入(金魚じゃないんだから!)して18年間屋根付き駐車場で暮らしていたというクルマ。始めて見た時は、あまりの新車に近い程度の良さでビックリした。ドアの開閉バネはまるで新車(古い車はドアの開閉のバネで、その程度が想像つくのだ。) 皮のシートは新車のままで疲れはゼロ。当然エンジンルームも一切の汚れ無し。結局、相場を度外視した値段だったが安い買い物をしたと思っている。いくらお金を注ぎ込んでも、こんな程度の良い車には出会えない。そしてレストア(復元)して出来るものではない。ハードトップは取り外せて春から秋までは物置に入れて内蔵されたソフトトップ(ホロ)にしておいてオープンで走りたいときには開けるのだ。波田は洗車嫌いだが、この車の場合は別で乗るたびに洗車して乗っている。そんなピッカピカなSLがお気に入りだ。駐車場に停めて去るたびに振り返って眺めて、ため息をつく。フゥゥゥッ・・・・・・カワイイ。可愛い車は後姿が最高なのだ。これで深夜の都内をクルーズするとゴキゲンなのです。音楽は80年代っぽいソウルフルなのが合うかな!


我が家に来て10年目に突入。本当に素晴らしい車だ。巨匠・徳大寺有恒先生(”間違いだらけのクルマ選び”の著書で有名)は20世紀に最も輝いていた車と評し、モナコのホテルドゥカップ前にビカビカなフェラーリ、ポルシェ、ランボルギーニ、ロールスが並ぶ中、何故かそこに駐車していたゴルフクラッシック・・これが忘れられないと語っていた。乗ればわかる素晴らしい車です。当時の限定仕様で白い皮シートがとてもチャーミング。基本設計は80年代のゴルフだと思うけど、実にシートに座ってダッシュボード越しに見る景色がなんともいいのです。この時代の車はウエストラインが低いので車内から外が良く見える。(当然、エアバック無しの爽やかデザイン)現代は流行、安全性から深い位置で座るので見渡しがこんなにきかない。まぁ、そんな理屈ではなく素敵な一台です。春先や秋口の日中、海岸線、深夜の都内なんか時々気分転換に開けて走ると爽快です。(当然、電動トップなので簡単開閉!) 当時の価格はブッタマゲに高価だった。たしか400万円前後だったと記憶する。グリーン×黒ホロ、バーガンディー(エンジ)×エンジホロ、紺メタ×濃紺ホロの三色がありどれも内装は白レザー。程度が良い車があったら買い!な一台です。

1993年に憧れのクラッシックカーレース”ミッレミリア”に出場した。(ミッレミリアとは1600キロという意味)1950年代まで続いたイタリアが国をあげて開催した公道レースだったが観客を巻き込む大事故で、やむなく中止。そして1980年代に復活。古い車好きならば見る事が夢という人も多い。その憧れのミレミリアに縁あってスポンサーが付き参加、出走という夢を現実にしたのだ。波田は憧れの名車フェラーリ250GTC(50年代の名車、値段は9桁)にて出走!! 生涯忘れえない思い出になったのは当然だ。他の約350台の世界の名車達は全て名車といわれるクルマで、殆んどが公道でお目にかかることは無い博物館クラスのクルマ。そんな名車が道路交通法を無視(?)して公道レースをするのだ。そして波田が三日間イタリアを走りぬけたゼッケン301番の赤いフェラーリ250GTCの爆音は人生観を変える音で、素晴らしい走りっぷりであった。イタリア国内を1600キロ、一般公道を疾走する三日間なのだが途中の沿道では学校が休校になるくらいのお祭り騒ぎ。イタリアの少年達はサッカー選手になるのと同じ位、将来ミレミリアに出るのが夢だという。そして各都市のポイントでは市長や市民の熱烈な歓迎を受ける。そこで市長などから記念品をいただくのだ。だからチェックポイントの都市抜けるたびにクルマの後部にはお土産、記念品でいっぱいになっていくのだ。またフェラーリでこのレースに参加することは別格な事で、フェラーリ者社長(セルジオ・カッサーノ氏)の歓迎を受けて記念品贈呈がある。記念品は全てが超レアー物だった。出走前のパーティー(皆、ワインをガバガバ飲んで!)最終日のディナーパーティーも宇宙一のお洒落さであった。


1968年製のこの車、年の頃は37才になる。37年間、動き続けている機械というのは凄い事である。37才の友達は20代のヒトとは違う風格、美しき加齢を感じる。冷蔵庫だってコンセントをさして動いているだけで10年も経ったら壊れるのに37年間も動いているって凄い事だ。そしてその走りっぷりはお見事!、現役バリバリで夜中の首都高、第三京浜では”サーキットの狼”(古いねぇ)と化すのだ!!とにかく軽いので俊敏でコーナーリングはお見事!そして乗るのと同じ位、ガレージで眺めているのが嬉しい車だった。クルマを停めて歩き去るときに振り返る。その後姿をみてまた立ち止まるなんてことがしょっちゅうある程に素敵です。(ボクの好きな車・・・・去る時に振り向きたくなるクルマ) ある時、普段乗りの車の修理に入れていた工場に見舞いに行ったら、そこにやはり修理に入っていたのがこのエラン。イッパツで一目ボレ。ロータスエランらしくない色がまた印象的だった。(普通はブリティッシュグリーンとか赤が多い。)狙っていたら願いは叶ってボクのガレージに。 1960年代の初め、英国のロータスという小さな自動車会社が倒産の危機に瀕していた。それはエランの兄貴分のエリートがその名の通り優秀だったが放蕩物だったのです。社主のアンソニー・コーリン・チャップマンは、もうちょっと稼ぐクルマを作る必要に迫られていました。エリートより安いコストでエリートを凌ぐ性能を要求されてロータス社を救う為に1963年に生まれてきたのが”エラン”です。この二人乗り高性能スポーツカーは1973年までの10年間作られ、ロータス社はこのクルマで救われ大成功を収め会社は持ち直しました。

これはお宝クルマです。とにかくメルセデスのこの型(W123型)が好き。マニアには高品質のメルセデスベンツの最後の型と言われている。現に世界中で最も売れたベンツにして現在、最も多く残っている型とも言われている。同年式の”赤”を一年かけてレストアをしていた時にこの車に出会った。とにかく19年間で走行距離がたったの6万?という異常なまでの程度の良い車だったのでイッパツで恋に落ちた。名古屋の大金持ちが当時、本国に注文して特注、そのままエアコン付きガレージで暮らしていて,その後、東京のとある有名ミュージシャンが購入。そこから波田が購入という経緯。値段は相場より相当に高かったが、レストアではありえない新車の香りが残っていたこの車は僕には魅力だった。(幸いの赤の同型は友人が大切に乗ってくれている。それだって大変なシロモノ。)だいたい、この時代のベンツはヘッチャラで20万キロ~30万キロは走ってしまうから、お楽しみはこれからです。ドアを閉める音というか質感は現代の車とは比較にならないほどに高品質。歴史的に高級ステーションワゴンという潮流を初めて作ったのがこのメルセデス。それまでは”バン”という扱いだったんです。ボクのクルマは当時には相当に珍しい本皮張りシート(ボディー色の深緑)、スライディングルーフ、ヘッドライトワイパー、シートヒーターなどのフル装備。一年の内で夏以外に都内で乗る事が多く日常のアシにはベストです。特にネオン下での深い緑がとても良い色なんですね。(自分でもウットリしながら書きました。)

2014年2月9日 世には様々な“ショー”(展示会、コンベンション、見本市)がある。どんな展示会にしろ、それぞれマニアから見たら魅力的なものなのだろう。出展する側も、このショーに合わせて様々な新ネタを用意してくるから、見る方も出す方もかなりのエネルギーをこれに注ぎ込んでいるのであろう。世界中、どこの大都市に行っても必ずコンベンションホールが存在して、そんな場所を利用するのが“展示会”である。モノによっては“相手”は世界だ。
今回、楽しみにしていたのが“キャンピングカー・ショー”なるショーだ。日本中のキャンピングカーを作る業者と輸入業者が幕張メッセに一堂に会するという素晴らしいイベントだ。オレの夢の一つに“キャンピングカーで日本を縦断する!”と言うのがある。その夢を一歩、具体化させる為にも是非とも見てみたかったのだ。一度に全てを見れたら自分の好みのデザインやサイズもわかるであろう。とにかく見なければ始まらない!

幕張メッセに昼過ぎに到着。メッセのデカさに改めて衝撃。ショーはさすがにスゴいスケールで、裕に100台のキャンピングカーが展示されている。キャンピングカーは当然に“くるま”だ。普通の車は走ってナンボ、でもキャンピングカーだけは停まってナンボなのだ。と言う事は実際に移動の手段ではなく、宿泊や快適性の勝負になるのだ。 単純に言えばデカければ快適だけど、それを移動させるとなると大変!逆に小さいと移動は楽だけど快適性は無くなる。 今回はオレにとって何が快適で何が適切なサイズなのかを知りたい! それが今回のオレのテーマだ。グルッと会場を見回してわかったのは、オレ的には国産のキャンピングカーは総合的に却下。見た目は良い。安全性、故障のリスク、維持費の安さ(想像だけど)は国産がベスト。(トヨタ・ハイエースをベースに改造したモノが殆んど)だけど何か色気が無いのですよ。逆を言うと、やはり歴史と文化が違うのか、外国製のモノは圧倒的に良く出来ているのですよ。まとまり感がある。ただやはりお値段は高い!(笑)イタリアの国民車フィアットをベースにイタリアで制作されたモノがピンときたなぁ。トイレ、キッチン、ダイニングなどその造作はお見事。少し幅も長さもデカいけれど、こんなキャンピングカーで日本中を旅したらさぞや快適だろうなぁと想像は出来る。

いつとは決めてないけれど、いつかこれで日本を回ろう。北海道でキャンプして、東北で名湯につかり、北陸で美味しい魚を食らい、京都で歴史を感じ、瀬戸内海で離れ小島をまわり、四国でお遍路さんを体験、香川は“うどん屋”巡りに尽きるね。そして九州で高級旅館なんかに泊まったり日本を感じながら沖縄でもダイビングしたりして・・・キャンピングカーには確実に夢があるね。キャンピングカーショーを見てイッキにそのモチベーションは上がり夢は現実に一歩、近づいた感じがする。 夢なんて片っ端から叶えよう! 夢は叶える為にある!
PV-BV Corporation. Presented by Keijiro Hada