5月29日《LSの帰りに久しぶりにロサンジェルスを訪れた。ジャカランタの花が咲きみだれ爽やかな風が街を吹き抜けていた!》 命の恩人という言葉がある。読んで字のごとく命を救ってくれた人だ。波田は1980年にアメリカに渡っていた。立場的に言えば”留学”という事になっているが勉強なんて学校でする予定はなかった。話せば長いが決めていた事は”アメリカに行く”という事。そしてその文化を体感するという事。 当時は今と較べようの無いくらいアメリカと日本の文化は違っていたし、日本は完全にアメリカ方面を全てに見ていた。今の日本のファッション界をリードする人々もほとんどがアメリカからの影響で育った。まだアメカジ(アメリカンカジュアル)なんて誰も着ていなかった時代だ。要するに、まだまだ未知の事が多い時代だった。当然に強烈にアメリカ文化に憧れていたし、いつかはアメリカを見て回りたい、影響を受けまくりたいと考えていた学生時代だった。しかし渡米の時期を決めるのも延び延びになりオヤジからはこっぴどく説教を受けて逆に期限を付けられてしまった。(そのわりにはオヤジは金銭的援助はなかった・・・)そして80年の4月に渡米・・・そこからの話は映画が一本、いや二本位、撮れる程にドラマがあった。
アメリカへの入国は観光ビザ。という事は自然と30日間と期限が決まられている。実は当初は一度、アメリカに来て学校を捜してから帰り、出直して行くつもりだった。当時は今みたいに入学を斡旋してくれる業者もなかったし、情報も本当になかった。(うちの親は全然知ったこっちゃ無い状態・・・)学校は様々な学校があったが波田が見つけたのはアダルトスクールだった。これはアメリカ政府が移民を受け入れる際に英語がわからないと困るから積極的に英語の指導をしている学校。奇特にも、その学校はビザを発行してくれる。その上に学費が三ヶ月で25セント!という事は年間1ドルだった。しかしビザを収得するには一度、日本に帰る必要がある。それは金銭的には本当に辛い! ということでイミグレーションにかけあうことにした。唯一、銀行にものすごい残高があれば例外的に観光ビザから学生ビザへの書き換えも可能性的にはあると聞いた。波田の残高は・・・・・500ドル程度。死ぬ程に金は無かった。そんな残高でイミグレーション(移民局)に掛け合うのも失礼というか前例がなさすぎたと思う。 実際にオフィスに行ってみた。何時間か待たされて波田の順番に・・・・辞書を見ながら書き込んだ書類と貯金通帳を提出すると、担当官はその通帳の残高を見た瞬間に波田の顔と数字をじっくり見たと思いきや大笑いを始めたのだ。それも机を叩きながら! そして後ろに座る同僚にも”こいつの残高を見てみろよ!!”と見せて廻る・・・意味がわからなかったが、要はこの残高でここに来るとは普通じゃないけど、この冗談みたいな数字を見て彼は何を思ったか”ビザ欲しいか?”と聞いて来たので”イエス”と答えるとバシーンと”受領”のハンコを押してくれたのだ。実にアメリカの”懐”の深さを感じた瞬間だった。そしてそのままアメリカに留まれる事になった。(アメリカ事情に詳しい方に聞くとありえない話だというよ。申請中という状態だとそのまま滞在をする事ができるのだ!)それはそれは、相当に強運だった。やはり聞いてみなければわからない。そしてアメリカ生活は始まった。最初は友達の友達の友達の家に居候。その後、別の友達の友達の家に居候。新聞で見た住み込みのホームステイで居候。そんな宿無しに近い何ヶ月が過ぎた。その間は暇だったから結構、必死で勉強はした。ロサンジェルスは車社会なので車だけはボロだが所有していた。ところが数ヶ月目にそのボロのフォードが壊れたのだ。その修理費は一ヶ月分の食費に相当・・・・辛かったなぁ。ついに貯金の底をついたのが4ヶ月目。(少ない貯蓄を無駄遣いしないように数ヶ月に一度ずつ日本から振込をしてもらっていた。) 残金は20ドルだった。もう終わりだ・・・・そんな時に、急に通りがかりの”UCLA (ユニバーシティーサザンカリフォルニア・ロサンジェルス校)の生活カウンセリング”の看板が目に入った。そこの学生でもないクセに、迷いも無くそのカウンセリングの戸を叩くと、出て来たのは品の良い女性だった。そしてボクの事情を全て話した。そのカウンセラーの女性は、困った人ねぇという顔でメモを渡してくれた。その住所に夜の八時に行きなさいという。という事で帰って夕飯にリンゴ一個を食して夜の指定された時間に出直した。場所はビバリーヒルズ。ものすごい豪邸! ブザーを鳴らすと、先程のカウンセラーの女性がいた。”????”
要はその奥様は、超お金持ちで、ボランティアーで学生の役に立ちたいと生活相談を受けているのだ。そしてそのご夫妻には三人の子供がいたが二人は実の子でサンフランシスコの大学へ。三人目は孤児だったが、その家で育てられ、大学でニューヨークに出た。ということで、もうこれ以上子供はいらないけれど、子供と同じ待遇ならば我が家で受け入れてくれるという。そしてプライバシーも尊重してあげるからプールサイドのサマーハウスに住めという。さっき初めてあったオレを信じてだ。ビックリした。そんなデカイ器の人が世の中にいたなんて・・・まさに破産寸前から人生V字回復を遂げたのだ。危機は回避出来た強運な瞬間だった。ただ夫妻は敬虔なユダヤ教信者なのでドイツ製品は敷地内に入れるなと(意味が分からない人は世界史をひも解こう!)・・・ということで当時乗っていたワーゲンは売却されてジャガーが与えられた。(これものすごいラッキー!!) そしてアメリカ生活は当然に豊かに変化した。とりあえず飢え死にだけは免れたい・・・・・なんてレベルを超えた。その後、アメリカ放浪旅行に出るまでの半年近くをこの家庭で生活させてもらえた。だいたいこんな素晴らしい条件だとハードな労働を強いられることが多い。事実、以前にお世話になった家庭では奴隷のように働かされた。だから覚悟はしていたが、最初の土曜日にダイニングに行くと”お仕事リスト”が置いてあった。メモにはプール掃除から芝刈り、家中の掃除機がけ、部屋の模様替え、カーテンを洗濯・・・・驚く程の量の仕事だ。(アメリカ人はお金持ちでも自分でそのような雑事をやる人が多い)『これ一人でやるのかぁ・・仕方が無いよなぁ、こんな生活させてもらっているのだから・・・』と思っていたらご主人の登場。そしてそのメモを見ながら①③⑤は一緒にやったほうが効率がいい。②④は家内にやってもらおう。⑥⑧はケイジローがやってくれ。⑦⑨はボクがやるから。そして⑩は三人で協力してやろうよ!と言われたのだ。その御主人に『一人で全部やるかとおもった!』と言うと『君は家族だ!』・・・・泣きましたよ!これが人を動かす基本なんだなぁと思ったなぁ・・・・そんな波田の青春の最高な体験をさせてくたビバリーヒルズのMr&Mrsランドレスさん宅を久しぶりに訪問した。ビバリーヒルズは例年以上にジャカランタの薄紫の花が綺麗に咲き乱れていた。突然の訪問、そしてオマケに福井と室町、そして妻を連れての訪問だったが大歓迎をしてくれた。
ランドレス夫妻は本当に元気で、先週まで船旅で一ヶ月間のオーストラリア、ニュージーランドに出かけていたとアルバムを見せて話を聞かせてくれた。まさに悠々自適なリタイア生活をしている。もちろん夫妻は今でもボランティア活動には積極的で、最近まで12年間も中国人家族を家の離れで暮らさせ、親は大学を卒業させて子供も近所の高校に通わせてあげたと言っていた。(簡単な事ではないよ!!) ランドレスさんとの出会いは、波田がアメリカで見て、身体で感じた生のアメリカだ。おれもこんな人間になりたいって本当に感じた人だ。久しぶりに懐かしい良い時間になった。 想い出っていいもんだ。